Kalanchoe.

「幸福を告げる」「たくさんの小さな思い出」「あなたを守る」「おおらかな心」

盈盈たる一水

 

 

 後悔してもしてもしきれないことはたくさんある。

一度器からこぼした水はもう二度と器には戻ってこないように、自分の口をついて出た言葉はもう自分の心の中には戻らない。

 

 

 この学校に入学してから2ヶ月が過ぎた。

入学したばかりの頃は、朝何時に家を出ればいいのか未だにわからず、早くつきすぎたりギリギリになったり、乗車率がピークの車両に乗ってしまったりと失敗ばかりであったが、電車通学にも慣れてどの時間のどの車両が空いているのかがようやくわかってきた。この時間、この車両に乗れば空いているし運が良ければ、いや90%くらいの確率で座席に座ることもできる。5月の連休が過ぎた頃には、私はいつもと同じ時間、同じ車両に乗る学生として馴染んでいた。

私の通う学校は駅からほどほど距離があるため、多くの学生は車やバイク、近い人は自転車で通学している。私は未だに運転免許もなければ原付の免許もないし、自転車で通えるほど近いところに住んでいるわけではない。学校の近くには学生専用のマンションがあるが、そこには住んでいない。駅から20分歩いてでも、私は電車に乗る必要があるのだ。

 

 

 朝、家を出て駅に着き、ホームで電車を待つ前にトイレに立ち寄る。

鏡を見て化粧がよれていないかとか、髪がぼさぼさになっていないか、服が汚れていないかをチェックする。電車に乗った後のことを考え、はやる気持ちをおさえるために耳にイヤホンを突っ込む。朝のこの時間だけに聴く。前の自分だったら絶対に聴かなかった、聞いたこともない名前の女性が歌う曲。インターネットの音楽配信サイトで買ったその曲は、どうやらアニメの声優の曲らしかった。少女漫画をアニメ化したものらしく、歌詞は君を見てるとか、恋とか、ハートとかそういう言葉が多い。朝聴くにはもってこいの、聴いていると元気が出る。アニメ自体は観たことないけど、きっと観ていて元気が出るんだろう、そう思える曲であった。

 

 

7時26分。目の前に電車の扉がやってくる。座席を見て、ちらりとあの人が座っているのが見えてつい顔がにやけてしまう。あの人にさりげなく近く、それでも近すぎないあの人の前の座席の一番端がちょうどよく空いていたので、素早く腰を下ろした。あの人は今日も朝から寝ている。

 

 

 土曜日の朝はいつもと違いそんなに電車も混んでいないらしい。

 あの人はいつもこの時間に電車に乗っている。

あの人は耳に黒いイヤホンをつけていて、私服で、紺のトートバッグを膝の上に載せ、下を向いていた。短めの黒髪で耳が見えている。綺麗な形をした耳で、耳を見るだけで「この人絶対イケメンだ」そう思わせるような雰囲気だった。

あの人はその日、イヤホンで音楽を聴きつつ眠っていたのだが、何かの拍子で音量の設定が狂ったらしい。いきなりものすごい音の音楽がイヤホンの小さなスピーカーをつんざいた。

彼は慌てて目を覚まし、あわててイヤホンを耳から外し音量を直そうとしたのか音楽を止めようとしたのか、カバンの中に手を突っ込んでいたのだが音楽は鳴り止まないし、周囲の乗客も迷惑そうに彼を見ていた。中には彼に注意をする人もいたが、彼は驚いたように目をぱちくりさせながら手を動かしていた。相当動揺しているらしかった。

しばらくしてようやくイヤホンを抜けば曲も止まることに気づいたらしい。あの人は顔を真っ赤にして、トートバッグに顔を突っ込むかのように眠りの世界に逃げていった。

 

あの人は耳が聞こえない。

 

 

聞こえない、というのは語弊があるかもしれない。正しくは、普通の人間より聴力が半分ほどしかない。

だから朝音楽を聴くときは、普通の人以上の音量でないとまず聴こえないらしい。そのせいでちょっと設定が狂うとすぐに音漏れしてしまうらしい。

彼が電車で音漏れをしていたとき、イヤホンを抜けば曲が止まるからと、隣の人に指摘されていたのだが彼は相手の声も聞こえず、驚いていて、普段使っている手話も満足にできず、あ、あ、と声を漏らしてばかりだった。彼の様子がおかしいことに気づいた隣の人は、自分のスマートフォンを叩いて画面を見せた。あの人はようやくイヤホンを抜けば曲が止まることに気づき、イヤホンを引っ張った。

 

 

あの人は、私の数少ない友人である。

というのも、私が小学生の頃に同じクラスにいて、趣味が読書ということで何かと仲がよく、彼から簡単にではあるが手話を教わりつつ話をしていた。

聴力が普通の人の半分ほどというのは大変らしかった。担任の先生もだいぶ苦労をしていて、彼のために板書の量を増やしたり独自に手話の勉強をしていたらしかったのだが、小学校が限度だった。中学校からは養護学校に通うことになり離れ離れになった。

 

 

 

 小学校を卒業してからは手紙のやり取りを続け、高校に入ってからはお互い携帯電話を持っていたのでメールでのやりとりが中心になった。

正直言って、手話や読唇術を用いた会話より、メールの方が圧倒的に楽だったため、小学生の頃話していた時間より、メールで話す方が長かった。

メールでお互いの心境を話すうちに、次第に心は惹かれていた。生徒会の仕事が大変なこと、勉強が難しいこと、先生が厳しいこと、なんでもあの人に打ち明け、その全てを彼は優しく受け止めてくれた。普通の人よりも聞こえる音が少ない分、文字を読むこと、その文字に託された気持ちを汲み取る力をあの人は持っていた。

 

高校2年生の秋、生徒会長に立候補し見事当選した私は生徒会の新しい活動として近隣の養護学校との交流を提案した。無論あの人と会うためであった。

 

 

高校3年生の秋になると、私は指定校推薦で見事希望していた大学の学科に入学することができた。あの人が通うといっていた大学の近くにある大学である。

そして、大学合格を機に私は彼に告白した。自分が何で生徒会長になったのかとか、そういう理由もつけくわえ彼に告白した。それでも返事はノーだった。

絶対に成功する挑戦しか私はしない。だからその結果にはショックを受けた。

理由を聞くと彼は耳が悪いことが私に迷惑をかける、だから無理。とまずはじめに言ったが、その後生徒会長として活動する姿を見て自分には到底手の届かない存在になってしまったとメールしてくれた。

 

 

自分には手の届かない、自慢の友達だと養護学校の人にも話をしていたとそのとき初めて知った。

自分にとって、恋人ではなく、自慢の友達として一緒に居たかった、そう告げられた。

 

 

自分に自慢できるところなんてひとつもない。

生徒会長になったのも、指定校推薦で大学に合格したのも、全てあの人のためなのだ…。

告白こそはしたけども、結局気まずくなり、私からは何も言えなくなった。朝はなるべく電車の中で顔を合わせないように、様々な時間帯の電車に乗ることになった。

告白なんてしなければよかった。しなければ、きっと今日も、あの人の隣に座って一緒に通学できた。

あの人を避けるために毎朝違う時間帯の電車に乗るようにしているが、それでもやっぱりあの人に会えるのは嬉しかった。

あの人がイヤホンから漏らした曲のことを直接メールして聞いてみたかった。頑張って記憶の片隅から文字を紡ぎ出し、ようやく見つけたその曲が、イヤホンを通して聴くたびに私をあの人のことでいっぱいにした。

 

 

あの人に対して何も言えない分、あの人に対しての気持ちで自分を満たしていくことが幸せ。

今日も彼は電車で眠っている。

 

 

 

今日は小説を書きました。おわり。

 

 

盈盈たる一水:【愛する人に言葉をかけることが出来ない苦しい思いのこと】